このコラムの第1回に父方の祖父も母方の祖父も灯台守で、北海道の灯台を中心に勤めていたことを書きました。また、高校生から大学生まで、好き過ぎて毎年夏休みに北海道旅行をしていたことも書きました。その中で祖父が勤めていた灯台、すなわち一家が生活していた灯台を訪ねています。その中の二つをご紹介したいと思います。
まず、父方の祖父が1934(昭和9)年から4年勤めた奥尻島の稲穂岬灯台を訪ねたときのことです。私は大学生で、北海道の日本海側を北上するという一人旅を企画し、函館、江差、小樽、羽幌、天売・焼尻、稚内というルートで北上する途中、奥尻島に渡りました。賽(さい)の河原で会ったご老人に教えてもらった稲穂岬に近い民宿に1泊し、食事をしようと思ったときに驚くべきことが起こりました。
父から近くの稲穂小学校に通ったということを聞いていましたので、民宿のご主人に何気なくそのことを伝えてあったのですが、父と同級生だったという人が何人も民宿を訪ねて来られたのです。イカを干したものやスイカなども頂きました。当時父は50歳すぎですので、数年しかいなかった40年前の小学校の同級生を覚えておられたのは驚きでした。当時どのような話をしたのかほとんど記憶にありませんが、灯台守一家が地元で大切にされていたことが感じられ、うれしかったことを覚えています。
もう一つ、両祖父一家が終戦前後に一緒に暮らした根室の落石岬灯台です。落石にはその当時からわが家と親しくしてくださっていた網元の方がいました。その方が、大学院に行こうと考えていた私を大学4年生の夏休みに落石に誘ってくださいました。涼しい所で勉強したらどうかというお誘いです。働きながらという約束でしたが、ほとんどど働かず20日ほど勉強の時間を頂きました。結局、大学院には行きませんでしたが、この日々は別世界にいるような貴重な時間となりました。
真夏なのに曇ると朝晩はストーブを出すような気候でしたが、勉強の合間に何度も灯台まで足を運び、両祖父一家が暮らし、父母が初めて会った灯台を眺めていました。すごく厳しい自然、落石の町から遠い不便な生活に耐えながら灯台を守り、戦時中は敵機の襲撃を受けながらも灯台を守り続けた二つの家族がそこにいるような錯覚を起こしたことを今でも覚えています。(元AIRDO社長)