待ちに待った春が来て、穂別診療所の診察室でも「そろそろ苗を手に入れなきゃ」「今年は何を植えようかな」と家庭菜園の話をしてくれる人が増えてきた。「家庭菜園」とはいっても都会によくあるひと坪ほどのものではなく、かなりの広さらしい。「できたものは全国のあちこちにいる親戚に送る」「この年だけど野菜はお金出して買ったことがないの」と誇らしげに語る80代、90代もいる。
『大地を踏みしめて』という上下2巻の本がある。地元のボランティアが多くの人たちに自分史、穂別史を語ってもらってまとめ、2014年に発行された。そこにも厳しい自然環境の中、作物を育て牛や馬を飼っていた親の話、自生の野イチゴをおやつに河原や山で遊んだ子ども時代の話がいっぱい詰まっている。
驚くのは、「お金をもうけてこんなものを買った」といった話がほとんど出てこないことだ。もちろん、当時も大人たちは農業や昔あった炭鉱での仕事でお金も得ていたのだろうが、思い出を彩っているのは高い収入やぜいたくな消費の話ではない。家族や近隣の人たちとの触れ合いと助け合い、自然の中で見つけた木の実の味、石ころや木の枝を使って編み出した自分たちだけの遊び、記憶の柱になっているのはそんなことなのだ。
いまの若い人たちが高齢になり「聞き語り史」を作りたいとなったら、そこに出てくるのはどんな話になるのか。ショッピングモールでこんな買い物をした、ネットの有料チャンネルであんな映画を見た、といったお金をかけての消費は、果たしてその人の人生の思い出になるのだろうか、と考えてしまう。もしかすると、「私の過去ってみんなとだいたい同じ。これといって特別なことはなかったな」とぼんやりした記憶しか残らないのかもしれない。
いや、穂別の子どもや若者の場合はちょっと違う。いまを生きる彼らはスマホやパソコンを使いこなし、ゲームをしたり情報を手に入れたりもしているが、一方では元気に外で遊んだり花づくりや野菜づくりに取り組んだりし続けている。彼らなら、50年後も70年後も、誰かに聞かれれば鮮やかな思い出を語ることができるはずだ。
「春が来て畑にやって来た白鳥をおばあさんと見に行った」「鵡川の水面がキラキラ光るのは本当にきれいだった」。いまの子どもがいつか語る自分史や穂別史、若い人たちは楽しみにしていてほしい。
(むかわ町国保穂別診療所副所長、北洋大学客員教授)