谷内六郎の描く風景の中には、さまざまな楽器が登場します。季節の訪れを奏でる楽器たちは、「まるで楽器のように」ではなく、「まさしく楽器」として描かれています。絵の中の景色は現実にはあり得ない光景であるはずなのに、無理なく受け入れることができるのはなぜでしょう。
作家の橋本治は、谷内六郎の作品には「現実」と「幻想」の境目がないとしながら、作品が「自然な発想が自然のまま絵になっているから、『そういうもんだ』と思うしかないのである」と言います(橋本治「シュールレアリスト谷内六郎」『芸術新潮』2001年5月号、新潮社、01年5月、60ページ)。
谷内六郎の作品を前にすると、私たちの心の奥底にある景色が再び呼び起こされるような気持ちになります。それは、絵の中の景色が、私たちがかつて体験してきた感覚を形にするものだからではないでしょうか。
谷内六郎は「人はだれでも小さい時、(中略)自分だけしか解らない宝石のような大切な感覚をあじわう時がきっと一度や二度はあると思うのです。(中略)みんなそういう体験感覚を一生もっていて、時々想い出していると思うのです」(谷内六郎「表紙の言葉」(南風のうた)『週刊新潮』1963年4月8日号、新潮社)と語っています。
(苫小牧市美術博物館学芸員 立石絵梨子)