<12>昭和31年 「工業港」の位置付け確定 まちの将来へ官民の論議高まる 

  • 特集, 郷土の戦後昭和史
  • 2023年8月18日
電気店の店頭で組み立てられたテレビを見る人々(昭和31年)
電気店の店頭で組み立てられたテレビを見る人々(昭和31年)
市役所に隣接した苫小牧市消防新庁舎(昭和30年代)
市役所に隣接した苫小牧市消防新庁舎(昭和30年代)
第1回港まつりのパレードでにぎわう苫小牧駅前(昭和31年)
第1回港まつりのパレードでにぎわう苫小牧駅前(昭和31年)
大通拡幅期成会委員の北村作造氏
大通拡幅期成会委員の北村作造氏
 苫小牧市内タクシー、ハイヤー運輸状況推移
苫小牧市内タクシー、ハイヤー運輸状況推移

  

  高度経済成長が始まって「もはや戦後ではない」と経済白書がうたい上げ、国連加盟がようやく認められて日本が国際社会に復帰したのが1956(昭和31)年のことである。政府は、アメリカの援助や特需に依存しない経済を樹立しようと「経済自立5カ年計画」をスタートさせた。北海道については「北海道総合開発計画第2次5カ年計画」(昭和32年度閣議決定)の要綱が策定され、同計画の中では「工業発展の基盤として苫小牧港の整備を図る」ことが特記される。すなわち、この昭和31年という年は、政治・経済の上げ潮の中で、苫小牧港が工業港として国策の中に確実に位置付けられた年であった。ただ、本欄では当時の国策を云々(うんぬん)するよりも、その時流の中で地元の人々がどのように考え、汗を流し、生活していたのかを垣間見よう。

  

 ■築港への論議

  

  建設すべき苫小牧港の性格は「漁港」「石炭積出港」「工業港」などと時代によって変化してきたが、この年までにようやく工業港という形が明確になり、「苫小牧港築設期成同盟会」は新年早々、名称を「苫小牧工業港築設促進期成会」と改めて再出発した。

  「(今年の課題は)やっぱり港湾問題でしょう。工場誘致にしても港の目鼻がつかなくちゃあなかなか困難だ。港がある程度できれば中央でも黙っていない。さしあたり苫小牧としては、港湾促進に努力しなければいかん」(市議会港湾促進特別委員長・深澤正男氏=以下各氏敬称略)

  市議会では前年、革新系議員がつくった初の会派「公正クラブ」を中心に活発な論議が行われた。「公正クラブができてから一変したよ。新人でも古豪に伍(ご)して、いやそれ以上に発言できるようになった。年齢を超越して腹を割って話し合う明るい雰囲気になり、田中市長が若返ったとまでいわれるようになった」(市議会工場誘致特別委員長・五十嵐泰)

  「速記者を臨時にでも増員して直ちに(発言内容を)印刷し、議員や理事者、部課長に配付しようと思う。(略)全道、全国の議会の在り方や税財政問題に関する諸調査資料を取りそろえ、基礎を確立したい」(市議会事務局長・篠原金次郎)

  民間からは「この築港にともなって苫小牧総合開発委員会とでもいうべきものをつくる必要がある。港が出来るからといってただで市が発展するものではない。委員は各業種からベテランを集め、学者を含めた数十名が月2、3回委員会を開くのだ」(鶴丸デパート社長・中嶋誠次)。まちの将来への官民の活発な論議とそれを保証し支える努力があった。

  昭和25年に始まった「観光祭り」もこの年「港まつり」と名を変えた。

  

 ■まちのにぎわい

  

  「上げ潮」の中で、商店街はにぎわいを見せていた。にぎわいの中心は大通りから一条通へと移りつつあった。しかし、手放しでは喜べなかった。

  昭和23年に本町から錦町の一条通に移転した洋服店経営者で、昭和26年に設立された苫小牧専門店会の太田敏雄専務理事は「客は『楽しく買物できる場所』としてデパートを選び『少しでも安い物を』ということで生協を選ぶ。この中にあって市内の小売商店は一体どう進むべきか、いかにして小売店の存在理由を認めてもらうか。一体小売店とは何か?これまで『高い』『良い品が少ない』『サービスが悪い』という3点が苫小牧市内の商店街に対して消費者が抱いている共通の考え方とされていた。私たちはその3点を満足させねばならぬ」と話した。

  繁華街には自動車が目立つようになり、ハイヤーも大衆化されていった。

  「今のところ昭和さんと私(北海ハイヤー)のところで10台ある。雨なんか降ると買い物に来ていた奥さんたちでも気軽に呼んでくれるし、高校生なんかも5人くらいで金を出し合って1区間150円の小型を呼びますからね。それで小型が喜ばれるから今年は国産車を3台ばかり入れようと思って申請はしてあります。けどね、決してそんなもうかるものでありませんよ。新しいハイヤー会社ができるという話もありますが無理ですね。10台も増えたら必ず共倒れになりますよ。いくら苫小牧は景気が良いといったところで、たかが人口5万ですからね」(苫小牧ハイヤー営業所長・飯田勝平)。まちのにぎわいは、まだまだだという。

  

 ■テレビ時代の幕開け

  

  この年、苫小牧地方で一般テレビ放送が始まった。年も押し詰まった12月22日の事だ。これを前に、にわかにテレビブームが起こった。秋までに157台(苫小牧市統計)が設置された。客寄せに入れようとする飲食店が多い。晴れた日には屋根の上にアンテナを設置する風景があちこちにあった。自家製作したテレビを披露する電気店もあり、その映りがよかったものだから店頭がにぎわった。

  「値段が安くても三流品なら映らない場合もある」(電気店)とか。放送はNHKとHBC。NHKでは視聴者番号1000番までの聴取者に記念品を贈る計画を立てた。その1番を誰が手にするか、競争となった。

  テレビの導入は急速に進み翌昭和32年10月の調査では市内に447台。26軒に1台の割合で、特に王子社宅にはテレビアンテナが林立し、苫小牧を訪れた旅行者を驚かせた。

  

一耕社代表・新沼友啓

 参考=苫小牧民報1956年1~3月関連紙面ほか

  

 ■底堅い実力、拡幅、団結でかつてのにぎわいを

  

  舗装、拡幅事業が進む大通り(国道36号)。大通拡幅期成会会員の北村作造氏は、次のように話す。

  「昭和の初期における苫小牧の中心街はこの大通りだったんですよ。それが今ではどうやら一条通りに移ったようですがね、それでも経済的には一条通りよりしっかりしていますよ。まあ一条通りは派手ではあるけど。大通りは地味だが底堅い実力を持っておりますよ。今拡幅工事が行われているため、本格的な振興計画はやっておりませんけど、若い人たち、いわゆる2代目ですかね、この人たちが今台頭して、街路灯を接地しようという案も出されて、これが可決されたんですよ。今年中には設けるように毎月200円以上の貯金を各戸に呼び掛けております。喜ばしいことです。大通りの人たちも札幌の狸小路みたいに一致団結してやれば大通りも昔の夢が再び現れることは可能なんですよ」

  

 【昭和31年】

  

 苫小牧の世帯、人口=11,400戸、57,004人

  

 《昭和31年市営バス路線》

 市内線延べ約14.9キロのほか勇払、千歳、日高、支笏湖、弁天、錦岡、モーラップ、高丘の各線。合計104.389キロ、停留所103カ所。車両17台。運転手18人・車掌19人

  

  

 1月 5日   「苫小牧港築設期成同盟会」の名称を「苫小牧工業港築設促進期成会」と改める

 3月      沼ノ端地区の簡易水道給水開始

 3月 1日   市立自動車学校開校

 4月 1日   国鉄小糸魚信号所が旅客駅「小糸井駅」になる

 4月      「勇払会所の跡」と「蝦夷地開拓移住隊士の墓」を苫小牧市文化財に指定

 5月      全国選抜高校野球大会(第28回)に苫小牧工業高校初出場。対芦屋高校3対5で惜敗

 8月14~16日 第1回港まつり開催(観光まつりを改名)

 9月      緑ケ丘公園、都市公園に指定

 11月 7日  苫小牧消防庁舎新築落成(旭町、昭和58年4月解体)

 11月26日  国道36号の市街地舗装工事完成

 12月22日  苫小牧地方で一般テレビ放送開始

  

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