<23>昭和42年 病院、ハイランド、大型施設次々に スケートまつりでしばれ焼き登場

  • 特集, 郷土の戦後昭和史
  • 2023年8月18日
大増築が進む苫小牧市立総合病院(手前の建物が旧院舎、昭和41年)
大増築が進む苫小牧市立総合病院(手前の建物が旧院舎、昭和41年)
完成間近のハイランドスケートセンター屋外パイピングリンク
完成間近のハイランドスケートセンター屋外パイピングリンク
第1回スケートまつりの雪像
第1回スケートまつりの雪像
第1回スケートまつりでの初めての「しばれ焼き」
第1回スケートまつりでの初めての「しばれ焼き」
昭和41年度苫小牧港輸移出品割合(%)=下、昭和41年度苫小牧港輸移入品割合(%)=上
昭和41年度苫小牧港輸移出品割合(%)=下、昭和41年度苫小牧港輸移入品割合(%)=上

  

  苫小牧港は、急激に発展した。第一船が入港(昭和38年4月)してからわずか4年で、貨物取扱量は年間600万トンにもなった。その多くが石炭ではあったが、商港区の整備の中で「商港」としての性格を強めつつあり、さらなる整備のために待望の20億円の予算が付いた。高度経済成長と港湾整備の進展によって、既存企業の設備投資や新規企業の進出が相次いだ。王子製紙は約70億円という道内最大の設備投資となるN―2マシンの建設に着手(翌年3月運転開始)。岩倉化学のホルマリン工場新設、臨海地区への宇部興産進出、昭和石油など石油各社の第2次基地建設などが続き、さらに日軽金の進出が決定。街を見れば、市民会館の起工、市立病院の大規模増築完成、ハイランドスケートセンターの完成などと大型施設が次々に完成、あるいは着工され、郷土の風景は大きく変わっていく。

  

 ■市立総合病院の大増築

  

  昭和41年に着工した苫小牧市立総合病院(以下市立病院)の大規模増築は2期に分けて行われ、昭和42年8月、第1期分が完了した。鉄筋コンクリート造、地下1階地上6階の堂々たる院舎で10科444床。総工費は7億4800万円。このうち第1期分は新病棟と管理部門で8563平方メートル。2期分は診療棟1185平方メートル。

  この病院が開院したのは約20年前の昭和21年10月。内科、小児科、外科、耳鼻咽喉科の4科26床にすぎず、院舎は教会や古い料理屋を改造した粗末なものだった。その後数次にわたって増築されたとはいえ、まちの拡大に対する施設設備の不足は否めなかった。

  市立病院の大増築に先立って、王子病院が昭和40年に王子町から表町に建設した新院舎に移っていた。その後を追っての大増築だった。王子病院は42年に従来王子の付属病院から医療法人へと独立する。市立と王子のこのような追い掛けっこはその後も続き、王子が若草町に最新の設備を持つ大院舎を建てて移転したのが平成9年、市立が清水町に最新院舎を建設して移転したのが同18年のことだ。

  

 ■スケートリンクと霊園

  

  霊園と火葬場が昭和42年、移転した。跡地に札幌冬季五輪(昭和47年)の補助施設、ハイランドスケートセンターを建設するためである。

  5年後の札幌冬季五輪のため、練習用スピードスケート場として、東北・北海道一の規模という屋外パイピングリンクの建設に着手したのは4月。総工費2億5500万円。丘陵部の自然地形を生かしながら15万立方メートルに及ぶ土砂を取り除き、1周400メートルのパイピングリンク、1万8000人(1万5000人とも)収容の観覧スタンド、ハウスほか夜間照明施設などを備える。また、アイスホッケーリンク、800台収容の駐車場を建設、整備する。同月16日、陸上自衛隊の支援で着工。基礎土木工事が6月に終了し、その後民間業者に引き継がれた。

  開場式は12月10日。テープカットの後、鈴木恵一選手ら日本を代表するスピードスケート選手11人による模範滑走が行われ、さらに一般に無料開放されて約5000人がスケートを楽しんだ。

  移転対象となった火葬場があった位置はスケートリンクのちょうど中央に当たり、着工前に北側の丘陵内に移転していた。

  

 ■氷の祭典、人出は2万人

  

  この年の2月3日から5日まで、第1回苫小牧スケートまつりが王子スポーツセンターとその横の王子球場横広場で開催された。

  スケートまつりらしき行事は、昭和の初めごろからあった。発足して間もない苫小牧スケート協会が、現在の矢代町にあった沼にスケートリンクを造り、シーズンの納会に氷上カーニバルをやっていた。それを復活させたい。前年に苫小牧はわが国初の「スポーツ都市宣言」をした。5年後には札幌冬季五輪もある。スケートまつりはそんな雰囲気の中で始まった。

  野球場横広場にはスケートリンクを仮設し、スケート選手をかたどった雪像が、陸上自衛隊の支援で造られた。高さ10メートルの宣伝塔や歓迎アーチも設置され、初日の3日、市内実業団ジュニアアイスホッケー試合(岩倉クラブ対王子クラブ)で開幕。この年のアイスホッケー世界選手権派遣選手の壮行試合も行われた。4日は市内中学校選抜アイスホッケー試合、小中学生約1200人が参加しての「子どもスケートまつり」などが行われ、人出はざっと2万人に上った。「しばれ焼き」が初めて登場したのはこの時で、以来、苫小牧の冬の名物として定着する。

  

一耕社代表・新沼友啓

  

 ■「しばれ焼き」行事に飛び入り

  

  名物「しばれ焼き」の由来について、当時苫小牧市商工係長として第1回スケートまつりの準備に当たっていた佐藤純治氏が平成元年に次のように話している。

  「しばれ焼きそのものは、当初、まつりの計画の中にはなかった。雪像やスケートリンクづくりで自衛隊の協力をあおぎ、隊員を慰労するため産業会館(駅通り十字街東角にあった施設)の裏でジンギスカンを焼いて食べさせることになった。ものすごく寒い日だったが、ドラム缶の上で焼いて食べるジンギスカンもまた味わいのあるものだった。これはまつりにも使えるのでは…ということになり、行事のひとつに加えることになった。そうすると名前をつけなければならない。確か、当時商工会議所の専務理事をしていた海道力夫さんが『シバレる中で焼いて食べるからしばれ焼きでは…』と提案し、それにきまった」(苫小牧民報、平成元年2月4日付)

  

  

 【昭和42年】

  

 苫小牧の世帯(戸数)・人口 25,038世帯、95,898人

  

 〈内外の出来事〉 

 初の建国記念の日(2月11日)、初の商業用原発・敦賀発電所起工、中国が初の水爆実験、吉田茂元首相死去で初の国葬、初のベトナム反戦10・21集会

  

 2月3~5日 第1回スケートまつり開催、王子スポーツセンター、王子球場横広場

 2月28日  支笏湖道路の跨線橋(中野―緑町)開通し緑町踏切閉鎖

 5月28日  スポーツ少年団結成

 6月 1日  駅前都市改造事務所開設

 7月 3日  高丘火葬場新築落成

 8月29日  市立病院増改築完成、業務開始

 9月20日  支笏湖畔有料道路(湖畔―ポロピナイ間開通)

 10月22日 日本軽金属KKアルミ工場の苫小牧進出決定(11月1日公表)

 12月10日 苫小牧ハイランドスケートセンター(札幌オリンピックのサブリンク)完成、オープン

  

  

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