<32>昭和51年 全体像見えぬまま苫東現地着工 ゆりかごから墓場までの公共料金値上げ

  • 特集, 郷土の戦後昭和史
  • 2023年8月14日
苫東港の捨て石投入で苫東現地着工。海岸では反対する人々が拳を挙げる(昭和51年8月7日)
苫東港の捨て石投入で苫東現地着工。海岸では反対する人々が拳を挙げる(昭和51年8月7日)
ボウリングブームが終わり、「アストラボウル」は王子サービスセンターに変身。オープンに詰め掛けた市民(昭和51年3月)
ボウリングブームが終わり、「アストラボウル」は王子サービスセンターに変身。オープンに詰め掛けた市民(昭和51年3月)
苫小牧南高校の校旗が出来上がった(昭和51年9月)
苫小牧南高校の校旗が出来上がった(昭和51年9月)
竹田鉄夫氏(1976年6月12日付)
竹田鉄夫氏(1976年6月12日付)

  

  わが国の高度経済成長は、昭和48(1973)年のオイルショックを節目に「安定成長(低成長)」へと移り変わった。それまでのような右肩上がりの経済は、もう考えられない。だが、高度成長の中で立案された国策である苫東開発計画は引き続き進められていく。この辺りのちぐはぐが、後のまちづくりと市行政の体質に少なからぬ影響を与えていく。ともあれ、今につながる苫小牧のまちづくりの中で昭和51年という年を考えるなら、およそ以下の三つの出来事だけは取り上げなければならない。第一は苫東工業地帯の核となる苫小牧港・東港の着工、次に駅前や駅裏への大型店の進出決定、そして発展の裏側での財政難と相次ぐ公共料金の大幅値上げである。この3点を軸に、この年の多くのことが展開する。

  

 ■苫東開発現地着工

  

  8月7日午前10時半、苫小牧港(西港)方面から、べた凪(なぎ)の海の朝もやを突いて作業船「第五泰正丸」が浜厚真沖の着工現場に到着。同11時から、作業船溜まり建設のための捨て石作業を始めた。苫小牧東部大規模工業基地の現地着工の一瞬だった。

  昭和43年に芽生え、同45年に閣議決定された苫東開発。新全国総合開発計画(昭和44年策定)が掲げる巨大工業地帯開発計画は苫東以外に、むつ小川原(青森県)、志布志湾(宮崎県他)などにも計画していたが、その準備は苫東が最も進んでいた。しかし、その苫東も昭和47年度に8億9000万円の東港整備予算が付けられたにもかかわらず、公害への不安、用地買収の遅れ、激化する地域の賛否などによって現地着工は遅れ、この時まで実に4年を経過していた。この間、高度経済成長の時代は過ぎ去り、「巨大開発はこれが最初で最後」という声も聞かれ、期待と不安がないまぜになって政財界をはじめ各界から注目を浴びた。

  地元では計画への賛否にかかわらず「全体像が見えない」「低成長、減速経済の中で巨大開発が計画通りに進められていくのか」「膨れ上がる人口と公害の不安の中でどうまちづくりをしていくのか」という不安があふれていた。その中での着工。難関だった漁業補償はこの年の3月に決着を見ていたが、目の前にはなお第2次用地買収や保安林解除、石炭火発の立地、区画整理事業の実施など、多くの課題が積み残されていた。

  

 ■大型店進出の決定

 

  この年、苫小牧市内商店街は大揺れに揺れた。2隻の黒船の来航が決定したのだ。

  3月22日、国内最大手のスーパーであるダイエーが苫小牧進出を正式に発表した。前日開催された苫小牧駅前地区市街地再開発協議会で決議し、この日の発表となった。駅前に建設する商業ビルは地上7階地下1階。次いで5月29日には大型店国内ナンバー3のイトーヨーカドーが進出を発表した。地上3階地下1階で駅北側に進出する。共に売り場面積は2万3000平方メートルを超え、30%はテナントに割り当てる。駐車場は700~1000台。開店は共に昭和52年10月予定。市内には昭和48年に長崎屋が進出していたが、以来動きがなかったのは、苫東の動静をにらんでのことだったか。

  8月には地元の鶴丸も駅北側への進出を表明した。既存商業者は大型店対策協議会をつくり「秩序ある進出」を求める一方、魅力ある商店街づくりを探究した。12月には大町一条通の商店街のオーニング(雨よけ、日よけの出っ張り屋根)が完工し、歳末商戦を盛り上げた。既存商店の専門化、個性化を図るだけでなく、商店街が共同して環境整備や売り出しをしようという気風が生まれていく。

  

 ■相次ぐ公共料金値上げ

 

  オイルショックを引き金とする不況到来以前、「現苫」の成功と苫東開発の楽観的見込みの中でうなぎ登りに人口が増え、企業が進出し、従って苫小牧市の税収は豊かだった。工業用地に、住宅用地にと市有地も売れた。昭和48年8月、苫小牧市は普通交付税の不交付団体となった。普通交付税は、ある水準の自治体運営ができるようにと、需要額が収入額に満たない自治体に国が交付する予算。苫小牧市は昭和49年度、収入額の方が10億円以上上回り、不交付団体となった。つまり、金持ちなのである。道内の「市」の中で唯一の不交付団体で「税収の伸びから考えてそれは当分続きそうだ」というのが大方の見通しであった。

  ところがその矢先のオイルショックと不景気。税収は伸びず、土地も売れず、一気に財政難に陥った。しかし、まちづくりは待った無しだ。

  どうするか。

  苫小牧市が踏み切ったのは、公共料金の値上げ。まず、それまでも「安過ぎる」と格差是正が考えられていた公営住宅約3900戸の家賃を平均48%上げた。続いて国保税を平均59%値上げ。高丘霊園の使用料は造成費の値上がりからこれも1・5倍に。家庭用水道料は平均63%、下水道料は同52%。業務用上水道は何と倍以上の値上げ。

  他に市営バス、保育料や各種手数料も値上げ。ゆりかごから墓場までの15項目について料金が値上げされ、これに国鉄や電話料金の値上げが追い打ちを掛けた。

  「財源不足のツケを民にまわした形の値上げ」(苫小牧民報、12月1日付)と批判が起こった。給料のアップは後追いだ。市民生活はどうなるのか。

  

一耕社代表・新沼友啓

  

 ■滑走路南方移動に反対

  

 航空機騒音に悩む千歳市の8地区25町内会の代表者が、少しでも騒音を減らすために滑走路を苫小牧側に延長することに協力してほしいと苫小牧市、市議会に訴えたのが昭和50年12月のこと。以降、「滑走路南方移動」は苫小牧でも論議の俎上(そじょう)に上り、移動した場合騒音の影響を受けると考えられる沼ノ端の住民が昭和51年6月「苫小牧・沼ノ端を住みよくする会」をつくって反対運動を始めた。会長は市議、沼ノ端町内会長を歴任した竹田鉄夫さん(当時63)。

  「航空機騒音に悩まされ続けているわれわれとしては千歳の人たちの苦しみもよく分かる。だからといって滑走路が延長されて沼ノ端や植苗の人たちが犠牲にならなければならないという理由は成り立たない。市によると苫小牧側に入るのはオーバーラン部分で滑走路ではないという。しかし、滑走路が1000メートル延長されることで航空機の侵入角度が変わるため苫小牧も千歳も騒音が少なくなるという保証はなにもない。(略)住民の納得も得ないでそれを強行しようという市の姿勢には問題がある。何としても阻止し、純粋な気持ちで沼ノ端を住み良くさせていかなければならない」

 (昭和51年6月12日付、苫小牧民報、概要)

  

  

 【昭和51年】

 《日本の出来事》

 大和運輸「宅急便」開始、鹿児島で五つ子誕生(1月)/ロッキード事件の強制捜査を開始(2月)/北海道庁爆破事件(3月)/植村直己が北極圏犬ゾリ横断(5月)/ピンク・レディーが「ペッパー警部」でレコードデビュー(8月)/ソ連のミグ25函館に着陸、亡命(9月)

  

 2月29日 苫小牧川改修工事で佐羽内沼埋め立て

 3月10日 トキサタマップ湿原と勇払川旧古川を苫小牧市自然環境保全地区に指定

 4月11日 苫小牧南高校が東中を仮校舎として開校(第1期生135人)

 9月 1日 「字糸井」の一部が光洋町、日吉町、永福町、有明町、小糸井町に

 9月30日 老舗旅館「富士館」が閉館。大正8年以来60年の歴史に幕

 11月5日 苫小牧沖の海底油田試掘ボーリング始まる

 11月26日 有珠川改修による周辺地域地盤沈下で説明会

 12月24日 苫小牧駅のトイレが水洗化

  

  

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